昭和四十三年一月十七日 朝の御理解


 御理解第一節に、信心の手厚いのが真の信者じゃとあります。どうゆう事であろうかと、お伺いしてみますと、頭で受けず心で受けてゆく信者じゃとおっしゃる。所謂御教えが血に肉になっていくとゆう信心。ですから、考え方が当然変わってゆかなければならない。
 昨日、久留米の岡崎さんが参ってみえて、お届けされるのに、「先生、おかげ頂きまして、先生が何時もおっしゃる自分の力じゃあない、神様のおかげを頂かねばと言われる、お金でも自分の物じゃあない。神様の御物であるとゆう事が、少し分かってきました。まあ、例えて言うならば、一万円のうち五千円は自分のもの、五千円は神様の物といった感じでございます」私は、それを聞かして頂いて、あんた、よかとこいきよんなあと言うて話しました。五千円はあなたの物、五千円は自分の努力精進で、自分で儲けだしたものと、こう思っている。それが段々おかげ頂いて、五千円が六千円、六千円が七千円になるようになってきたら有難い。そこで先生、こうゆう結果が生れてくるとゆうて話されるんです。そこが段々分からせて頂いたら、今頃は、先生、全然集金の事はお願い致しません。成程、この人は半分は神様のもの、半分は自分のものになっていきよるなあと思いました。岡崎さんの話を聞きよりますと、只願わして頂く事は、どうぞ支払がスムーズに出来ますようにとゆう事ばっかりでございます。ここにいたって、成程おかげを受けるとゆう事が分かるでしょうが。集金はどうでもよか、問題は払う金がありさえすればよいとゆうのである。支払が滞っては相手に御迷惑をかける。そこが分からして頂くようになりましたら、今頃、おかげで集金の事は願わんで済むようになりました。先方が払いなさるなら、有難く頂くだけの事。問題は支払が滞っては卸屋さんに相済まんから、どうぞ支払だけは、スムーズにおかげ頂きますようにとゆうて、お願いします。おかげでですねえ、今頃どうゆう支払が参ってきても、きちっとスムーズに参ります。
 皆さん、ここのところが真似ではいけません。半分ぐらいは神様のものであるとゆう事が、実感としてでてくるようになったら、祈る内容が変わってきたとゆうのである。支払がスムーズに出来ますようにとゆう願いだけを一生懸命さして頂いたが、集金の事はいっちょん願わんでもおかげ頂きます。だから、あそこは何ヵ月もなっとっとに、払わっしゃれんとゆうて気をもむ事がいらんとゆう事である。有難い事だなあと思うですねえ、信心を段々さして頂いておりますと、本当に自分でもたまがるように心持ちが開けてくるのです。正しく、岡崎さんは、御理解を頭で頂かず心で頂きよんなさると、こう思うのです。私は御神米を下げて、御神米にこんなに書いてやりました。「絶対自力の絶対他力」
 皆さんが、こうやって一生懸命朝参りなさってます。特に寒中修業中ですから、もう私が御神前に出る前に、相当の人数の方達が集まってみえられます。有難い事だなあと思わせて頂きよりましたら、神様からお知らせ頂きますのに、女の方が帯を、人から、前になり後になりして、してもらっている姿を頂きました。自分で参ってきているようであっても、それこそ誰かが、前になり後になりして、信心の腹帯をしっかり、していて下さるんだとゆう事なのだ。けれどもよそ行きの着物を着ようとゆう気持には、やはり自分がならにゃあならん。本気でひとつ寒中修業の時なっと、朝参りさして頂こうと思うたら、誰かが、前になり後になったりして、帯を締めて下さると感じる。所謂絶対自力の絶対他力とゆう事が分かるでしょうが。本気で、私が、朝参りするんだ、私が、私がと、そこには我力のようなものがあるのです。どうでも、こうでもとゆうのですから、そうゆう自力が出てまいりますと、そこには絶対他力の働きがあるのです。ここに朝参りをされる多くの人が体験される事です。丁度、四時に目覚めんと間に合わんとゆう人は、きっちり四時に目が覚める。それはもう、あの手、この手で起こしてござる。誰かが戸を叩く音がしたり、実際にお声を頂いたり、四時半に起きねばならない人は、本当に間違いなしに四時半に起こして頂きます。本気で思うておれば、誰かが、前になり後になりして、それこそ、ゆり動かして、起こして下さるような、おかげが生れる。これは、もう絶対他力なのだ。絶対自力の絶対他力の信心だと思うですねえ、金光様の信心は。
 教祖の神様は、本当に人間とゆうのは無力であるとゆう事を、障子一重がままならぬ人の身ぞと教えておられます。何にも出来ない私なのだ。動かよるようであっても、動かさして頂いておられるのだ、とゆうように他力本願を解いておられるのだから、神様のおかげを頂かねば立ちゆかん。同時に四神様は、氏子、おかげは神から出ると思うな、氏子の心からぞと言うておられます。これは、もう絶対自力なのだ。
 昨日、久富繁雄さんが、朝の御祈念の時、拝まして頂きよったら、久保山先生が出てこられた。そしてからねえ、舛を持っちょる。その舛の中から、豆を播きござる。そして信心するなら、こげな信心せにゃあと言うておられるところを頂いた。私は直感致しました事ですが、自分が本当に、自分の身を空しゅうして信心を求め続けられた方だと思うんですねえ。豆とゆうのは健康の事、同時、福は内、鬼は外とゆう事。自分の心の中に住んでおる、おかげの頂けない、言わば鬼のような心とゆうか、そうゆうものを外へ出して、そして内には福なる心、即和らいだ心、おかげの頂けれる状態の心だと思います。そうゆうおかげを頂くためには、命懸けでそこのところに焦点を置けとゆう事なのです。もう信心はこれより他にない、日々の改まり以外にないのだ。お互いがですねえ、折角信心させて頂くのですから、本当に自分の心の中にある、汚い、やましい、こげなこつじゃあおかげは受けられまいと心に感じたら、それを本気で取り除かして頂く事に、それこそ一生懸命になれとゆう事なのです。そして、有難い心を、心の中に入れていけとゆう事なのです。
 昨日、ある方から手紙が参りまして、文中に、お前は勝手信心の代表者じゃと頂いた、とゆう事であった。身勝手の意味です。お互い、自分の都合のよか時、自分の都合でばっかり信心をする、これは勝手信心なのだ。それこそ、お互いが勝手信心の代表者である事を気付かねばなりません。自分中心でなくて、神様中心の信心にならせて頂きますと、そこには理不尽な事もあります。損する事もあります。苦しい思いをする事もあります。神様そりゃあ、私が思うとるとが本当じゃあないですかとゆう事もあります。けれども、そこんところが神様中心、例え、恥ずかしい思いをしても、どんなに損になっても、そんな事は問題じゃあない。只、神様が、そうおっしゃられるから、神様が、ああゆうて下さるからと、神様を中心にした信心にならして頂く時にです、本当のおかげが受けられる。神様の御信用とゆうのは、あればっかりは自分のよかごとばっかりするとゆう者に信用がつくはずがない。こればっかりは馬鹿んごたる、こげんすりゃ、みすみす損する事は分かっとるのに、こげんこつすりゃ恥ずかしい事は分かっとるのだけれど、そうゆう事は全然無頓着で言うとおりにするとゆうところに信用が集まってくる。
 御徳にもいろいろあります。神徳、人徳、霊徳。どうでも神徳を受けてゆくところのおかげを頂かなきゃいけません。為には、半分は神様の物と思い込める位のところ迄おかげ頂きたいと思います。支払が出来さえすりゃ結構とゆう楽な気持、そこに本当の繁盛の元がある。これが段々、言わば六割、七割、八割りと神様の御物である、神様のおかげを頂かないと、とゆう事が判ってくるとです、どうなってくるかとゆうと、絶対自力の絶対他力ではなくて、もう絶対他力とゆう一本になってくるのです。神様のおかげを頂けばとゆう事に。
 昨日、ここを下がらしてもろうて、子供達三、四人とコタツでいろいろ話しておりましたら、僕達も給料制にしてもらおうかと申します。月に四、五千円でよかなと言いますと、横から豊美が、もうそげなこつは絶対いかん。ぞげなこつより、必要な時に必要なにもろうたがよかと言いよります。その時神様から頂きます事が、陶器に筋がすーっと下がっている、短く長くかかっている。乳白色のですねえ、そうゆうところを頂いた。白とゆう色の深さよとゆう御理解を頂いた事がありますが、これは例えば自力と他力とゆうような意味合いに於いて頂いてもよいと思うんです。必要なだけは神様が下さる。一万であろうが二万であろうが、本当言うたら、やっぱりそれの方がよいです。けれどもやっぱりお互いは、まず自力が出ますから、ある程度の収入がなからねば安心がいかない。そこんところを自分のものが半分、神様のものが半分とゆうところが、段々分からして頂いて、おかげ頂いて、一切があなたのおかげを頂かねばでける事じゃあないとゆう事。
 私が寒修業に入ります一番初めの日に、皆さん頑張りなさい。本気でひとつ寒修業に参加させて頂きなさい。そして一生懸命力む事もよかろう、頑張る事もよかろう。そして一月間お参りさして頂いてから、一月後に分からして頂く事、本当に自分の力で参ったつじゃなかった、神様のおかげでお参りさせて頂いたんだ。神様からお許しを頂いてからお参りした事が分かると申しました。これは、もう自力の様であるが、自力そのものすら神様のおかげを頂かなければいけないとゆう事。皆さんがこうしてお参りさして頂いておりますけれども、信心の帯を自分でしておるように思うけれども、本気でその気にならして頂いたら、帯は誰かが、前になり後になりして結んでくれているとゆう事なのです。そして、そこに分からして頂く事は、絶対他力とゆう事だと思うのです。けれども、その絶対他力が、その信心が、初めに分かろうはずがありません。そこで私共は、お道の信心は絶対自力といったようなところから、四神様がおっしゃるように「氏子、おかげは神から出ると思うな。氏子の心から出るとゆう事に思いを於いて、本気で自分の改まりとゆう事を、鬼は外、福は内とゆう事を、命懸けで自分が、そこに修業さして頂く事によって、自分の心が段々福になってゆく。おかげの受けられる有難い心になってくる。
 そして思わして頂く事は、あれもこれも一切が神様のおかげでならして頂いておったんだなあ、神様のおかげで修業させて頂いておったんだなあとゆう事が分かる。そして、あなたのおかげを頂かねば、ここ一寸動かれない私達であるとゆう「障子一重がままならぬ人の身である」とゆう事がです、本当に分からして頂くところから、生れてくるところのおかげ、これがまあ私風に言うなら、まあ他力本願的なものじゃあなかろうかと思う。どうぞ、頭で頂かず、心で頂いてゆく、それが心の血肉になっていくとゆうおかげを受けてゆかねばなりません。
 昨日、堤清さんが二度目の御礼にみえてから、昨夜宅祭りが終わり、後片付けも終わり、神様にお礼を申し休ませて頂きましたら、お夢に家族中の者が、川でさっさと川魚を取りよるところ、それが母が取りよるとも台湾どじょう、自分が取っておるとも台湾どじょう。川のもの言えば、お徳とおっしゃるけれど、台湾どじょうとゆうのは、非常に獰猛な魚なんです。もう他の魚なんか食べてしまう、台湾どじょうとゆうのは。
 これは、おかげを頂いておる。お徳を受けておるようであるけれども、それこそ只おかげを頂きたいばっかりのお徳であったとゆうこと。最後に土を岸に上げたところが、土の中に、どじょうがいっぱい泥の中に入っていた。あら、どじょうもここにあるたいと言うておるところ。そしたら、私の足にごつごつと当たるものがあるから、足のところに手をやったところが大きな鯉が私の足にぶつかっておった。その鯉をとらして頂いたお夢を頂いたと、こう言うのである。素晴らしいです。もうゆうならば、昨日のお祭りの答えのようなものでよと言うた事でした。清さん、あんたげん信心は、台湾どじょうのようなもんばいと言うてです、最後にゴツと当たるもの、それは御神徳であったとゆう事なのです。そこに何とも神様が、信心しておかげを受けてくれえとゆう言葉を聞く様な気がします。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと、本当にそうゆう信心を身に付けてです、身にお徳を受けさして頂くところの信心にならして頂かねばならん。ちっとは我力のようでありましても、やはり自力のところから絶対自力とゆう勢いをもっての信心から、それが絶対他力になっていくところのおかげに変わっていかなければならない。そして、どうぞ、その中間であるところの岡崎さんの例をひとつ思うて、信心の過程に於いて、そうゆうおかげが受けられるとゆう事なんです。どうぞ。